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福井県坂井市立 三国南小学校の歴史年表(昭和初期・戦中の教育) |
三国南小学校創立100年記念誌(昭和48年発刊)から抜粋 |
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昭和初期の教育 |
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年号 |
西暦 |
概 要 |
大正15年
昭和元年 |
1926 |
三好校長著「自発教育案とその実践」発行
入学児童の組み分けを生活年令にて分ける。尋常4年の身体薄弱者に特別学級を編成する。
高学年児童に性能検査を実施する。
大正天皇御崩御,1週間輪番にてお通夜をする。
三国青年訓練所新設,結核予防デーが始まる。 |
昭和2年 |
1927 |
アメリカ児童より,わが国児童に人形を贈られる。本校には,4月28日に到着する。
貧困児童に学用品を給与する。
体育競技が盛んに実施され,本校各方面に活躍し優勝旗を14本も得る。
第5回初等教育研究大会を開催する。参加者は全国より600数十名が来校する。 |
昭和3年 |
1928 |
奉安庫を建設する。
今上天皇陛下,皇后陛下の御真影貸下げられる。
書初会・天神講・ひな祭り・端午祭・七夕祭の行事を盛大に実施する。
御即位祝賀会を開催し,芸術展覧会を実施する。
尋常6年は桃山御陵,高等2年は伊勢参宮旅行を実施する。 |
昭和4年 |
1929 |
三国海洋少年団を尋常科5年以上の有志者に結成する。7月16日に発足式を挙行する。
新様式学籍簿を制定する。 |
昭和5年 |
1930 |
伏見宮博義王殿下御来校。
閑院宮春仁王殿下御来校。
女児制服(水兵服型:セーラー服型)を制定する。
学習の作業化,郷土化を実施し郷土教材を加味せる学習細目を完成する。
労作教育を創設する。
16ミリ映写機を購入し,映写教育を始める。 |
昭和6年 |
1931 |
7月6日に校舎火災に罹り,197坪焼失する。残り2棟は翌年北小学校に移築,7月末まで2部授業をなす。
非常時的教育,訓練を施し,実績の下らないように努力する。
海軍大将岡田啓介来校し視察する。 |
昭和7年 |
1932 |
山上西地籍に移転改築竣工する。
校地坪数5125坪 校舎建坪数1412坪 総経費 7万1129円
落成記念祝賀式及び展覧会開催する。
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昭和8年 |
1933 |
陸軍特別大演習見学。
天覧児童作品出品。
実力養成を教授方面第1の主眼とする。
訓練方面においては労作を通して勤労精神を養う。
屋外運動を奨励する。 |
昭和9年 |
1934 |
愛宕山の校門を山上西の正門に移す。校門より児童玄関までの道路を設ける。
教育方針研究部・作業教育研究部・学校園教育部・学校教育研究部・訓練研究部を設け,各部ごとに研究実践にうつす。
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昭和10年 |
1935 |
「華を去り,実に就く児童の実力養成」を主眼とする。
毎月1回「力行会の例会」を開き自発的訓育を実施する。
三国部,坂井郡球技大会において優勝する。 |
昭和11年 |
1936 |
三国北尋常小学校を本校に併合,尋常4年の一部及び高等科女子を本校に収容する。他は,仮教場として旧北小学校校舎に収容する。
尋常科1年から手工,高等科に英語,実業課目に商業を仮設教科とする。
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昭和12年 |
1937 |
三国尋常小学校新設9学級を収容する。
天皇・皇后両陛下御真影奉還する。
校舎1棟及び地下室仮教場より移転増築する。
日華事変が起こり,7月連日出兵兵士を三国駅で送る。
上海陥落,旗行列,提灯行列に参加する。
南京陥落旗行列,提灯行列に参加する。
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昭和13年 |
1938 |
校庭周囲に松樹30本植樹する。
屋外小運動場校舎北側に籠球スタンド一対取り付けコートを作る。
教育綱領を作成する。
1.国体観念を明徴に日本精神を涵養することに努める。
2.質実剛健の気風を養成する。
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昭和14年 |
1939 |
校庭内の通学路の改修をする。
青少年学徒に勅語御下賜する。
戦時体制下における教育方針の樹立する。
宿泊訓練,時局訓練を実施する。
武道科を新設する。
裁縫・家事・読み方・算術・地理の研究を推進する。 |
昭和15年 |
1940 |
紀元2600年祝賀行事,提灯行列に参加する。
祝賀展覧会を開催する。
教育方針 「非常時国民としての錬成につとむ」とする。
防空演習を実施する。 |
昭和16年 |
1941 |
三国町南国民学校と改称する。
教科課程を改正,教練科・武道科を採用する。
北門入口の校門新設並びに道路を舗装する。
第2号水道布設する。
太平洋戦争起こり,戦勝祈願祭を三国神社で実施する。
国民精神を体認し国体に対する信念を皇国民の死生観を確率せしめる。 |
昭和17年 |
1942 |
太平洋戦争拡大のため,毎月8日大詔奉戴日に戦勝祈願実施する。
元火葬場の開墾により学校農場を拡大する。
愛宕山校地500坪を開墾し,学校報国農場として利用する。
国防上の要員としての素質向上に努力する。
食糧事情が悪化する。 |
昭和18年 |
1943 |
食料増産運動のため校庭の空き地等開墾,農作物を作る。
食糧不足のために「いなご取り」を実施する。
毎月,防空演習,避難訓練を実施する。
農村勤労奉仕に参加する。
決戦体制下における皇国民の錬成,戦力増強のための総動員態勢をとる。
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昭和19年 |
1944 |
三国町青年学校は,組合三国部青年学校に改称する。
二宮尊徳像,鉄筋の国旗掲揚塔は金物回収により供出する。
防空壕7カ所構築する。
三里浜海岸滑空場建設に勤労動員する。
決戦体制における教育の実践をする。
国防訓練の強化,勤労動員の徹底,戦技の基礎訓練をする。 |
昭和20年 |
1945 |
大阪市榎並国民学校集団疎開児童120名を収容する。
食糧事情が益々悪化し,校庭の大部分を開墾農場とする。
終戦の詔勅下賜。御真影奉還。
進駐軍ワグナ中尉が来校し視察する。教練科・武道科を廃止する。英語科を採用する。
神棚を撤去する。修身・歴史・地理を教授中止する。 |
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